2011/09/29 スポンサーサイト
一定期間更新がないため広告を表示しています
2010/03/28 23:57 NR JAPANのいく道は
人類500万年の
自分と自分じゃない世界を分ける 野蛮な関係性の歴史 文化を
全てがひとつの愛の関係性に 変化させていく、崇高な香り高い
チャレンジのもと、人材育成教育を実践しています。
自分と自分じゃない世界を分ける 野蛮な関係性の歴史 文化を
全てがひとつの愛の関係性に 変化させていく、崇高な香り高い
チャレンジのもと、人材育成教育を実践しています。
2010/03/26 22:46 嬉しい再会 〜 新たな出会い
3.6講演会に、多くの方がご参加くださいましたが、その中に以前
共に活動していた仲間達が何人も参加してくれて、懐かしい顔をみては
本当に嬉しい思いがしました。 離れていても応援してくれていたことがわかるからです。
その久しぶりに会った仲間と、先日と今日ゆっくり話す機会がもてました。
ふたりとも、応援の心大で、これからまた関わっていきたいといってくれてます。
私達の組織は本人の主体性を第一に、自由な関わり方をしているので、
このように久しぶりに再会した仲間達と、また共にいろんな関わりができると思うと
本当に嬉しいものです。
嬉しい再会〜お互いにあの頃からは、それぞれに変化、成長していて、だから
また新たな出会いとして、繋がっていける喜びがあります。
共に活動していた仲間達が何人も参加してくれて、懐かしい顔をみては
本当に嬉しい思いがしました。 離れていても応援してくれていたことがわかるからです。
その久しぶりに会った仲間と、先日と今日ゆっくり話す機会がもてました。
ふたりとも、応援の心大で、これからまた関わっていきたいといってくれてます。
私達の組織は本人の主体性を第一に、自由な関わり方をしているので、
このように久しぶりに再会した仲間達と、また共にいろんな関わりができると思うと
本当に嬉しいものです。
嬉しい再会〜お互いにあの頃からは、それぞれに変化、成長していて、だから
また新たな出会いとして、繋がっていける喜びがあります。
2010/03/23 23:29 TAO
人間人生は四苦八苦の連続といいます。
人間はなぜ苦しいのでしょう。
人間はなぜ野の花のように生きられないのでしょう。
人間は全ての存在に名前をつけて分離固定させて相対比較し、
常に審判、判断‥‥ それも 条件状況によって
ころっところっと変化するのです。
その中で、いったい何を頼りに生きられるでしょうか。
人間であって、人間を超えて生きられること。
これができて初めて、真の心の平和が訪れるのです。
人間はなぜ苦しいのでしょう。
人間はなぜ野の花のように生きられないのでしょう。
人間は全ての存在に名前をつけて分離固定させて相対比較し、
常に審判、判断‥‥ それも 条件状況によって
ころっところっと変化するのです。
その中で、いったい何を頼りに生きられるでしょうか。
人間であって、人間を超えて生きられること。
これができて初めて、真の心の平和が訪れるのです。
2010/03/18 21:25 境界線0の世界
人間は境界線をつくることが大好きらしい。
なぜなら、この世界のあらゆるものに境界線がつくられ、様々な比較をして
喜んだり悲しんだりしているから。
国と国との境界線、民族と民族の、宗教と宗教の、健常者と非健常者の、
セレブと貧困の、自分と自分じゃないものの・・・境界線
境界線をつくって、ひとつひとつに名前をつけ、分離させて、
どんどん複雑をつくり、無限に単語は殖え、障壁をつくっていく・・・
世の中が複雑になって、知らないことがどんどん増えていくから
臆病な人間は怖くなって、自分の好きな、手の届く範囲以外のことには
無関心になっていきます。
人間人生四苦八苦は、どんどんひどくなっていくのです・・・ (つづく)
なぜなら、この世界のあらゆるものに境界線がつくられ、様々な比較をして
喜んだり悲しんだりしているから。
国と国との境界線、民族と民族の、宗教と宗教の、健常者と非健常者の、
セレブと貧困の、自分と自分じゃないものの・・・境界線
境界線をつくって、ひとつひとつに名前をつけ、分離させて、
どんどん複雑をつくり、無限に単語は殖え、障壁をつくっていく・・・
世の中が複雑になって、知らないことがどんどん増えていくから
臆病な人間は怖くなって、自分の好きな、手の届く範囲以外のことには
無関心になっていきます。
人間人生四苦八苦は、どんどんひどくなっていくのです・・・ (つづく)
2010/03/07 22:32 3月6日 JMP講演会大成功!!
昨日3月6日 Noh Jesu 講演会 大成功しました。
春雨の中でしたが、定員1100名を越えるほどの満席御礼です!!
JMP実行委員長の話
↓
JMPが何を実践し、どんなビジョンに向かっているのか
↓
中川真子さんの感動ライブ
↓
Noh Jesuの感動の講演
『始まる! JAPAN DREAM時代 』
イギリス産業革命、アメリカIT革命のように
日本発の認識革命が国家ブランドに!
国会議員や大きな組織の代表、各方面の企業の社長
学者、研究者、学生、主婦、ちらほらと子供まで多くの方々が
参加してくださり、多くの方々が感動の涙を流されました。
私がお連れした、北海道から参加してくださった会社社長も、
「・・ずっと前から自分もこのようなことをやりたいと考えていた・・・
実際にやっている人がいるんだね・・・感動しました!」
と感想を話されました。
この会が、人類が真の幸せに向かう、明確なきっかけになることを願います。
人類が目覚めますように!!!
春雨の中でしたが、定員1100名を越えるほどの満席御礼です!!
JMP実行委員長の話
↓
JMPが何を実践し、どんなビジョンに向かっているのか
↓
中川真子さんの感動ライブ
↓
Noh Jesuの感動の講演
『始まる! JAPAN DREAM時代 』
イギリス産業革命、アメリカIT革命のように
日本発の認識革命が国家ブランドに!
国会議員や大きな組織の代表、各方面の企業の社長
学者、研究者、学生、主婦、ちらほらと子供まで多くの方々が
参加してくださり、多くの方々が感動の涙を流されました。
私がお連れした、北海道から参加してくださった会社社長も、
「・・ずっと前から自分もこのようなことをやりたいと考えていた・・・
実際にやっている人がいるんだね・・・感動しました!」
と感想を話されました。
この会が、人類が真の幸せに向かう、明確なきっかけになることを願います。
人類が目覚めますように!!!
2010/03/03 11:35 いよいよ間近⇒ 3月6日は Noh Jesu 大講演会
『 始まる! JAPAN DREAM時代 』 の東京講演 が開催されます。
Made in Japan × Heart of Japan = JAPAN MISSION
” モノづくり ” から ” 人づくり ” へ
時代の危機を救う日本発 CSM企業 とは?
500万年来の人類集団知性を目覚めさせる大きなうねりが日本文明から誕生!
イギリス産業革命 ⇒ アメリカ IT 革命 ⇒ 日本発 認識革命 が始まる!
JAPAN MISSION PROJECT は 全国主要4地域を巡りながら、
日本から世界を元気にしようと活動しています。
ぜひご参加ください!!
●2,010年3月6日 12:00開場 13:00開演〜16:00終演
●九段会館 大ホール
●懇親会 九段会館 真珠の間 16:30〜18:00
Made in Japan × Heart of Japan = JAPAN MISSION
” モノづくり ” から ” 人づくり ” へ
時代の危機を救う日本発 CSM企業 とは?
500万年来の人類集団知性を目覚めさせる大きなうねりが日本文明から誕生!
イギリス産業革命 ⇒ アメリカ IT 革命 ⇒ 日本発 認識革命 が始まる!
JAPAN MISSION PROJECT は 全国主要4地域を巡りながら、
日本から世界を元気にしようと活動しています。
ぜひご参加ください!!
●2,010年3月6日 12:00開場 13:00開演〜16:00終演
●九段会館 大ホール
●懇親会 九段会館 真珠の間 16:30〜18:00
2010/03/02 22:06 父 ・ 黒木三郎 逝く (5)
2,010年2月20日 19時56分に父の死が確認されました。
その日のうちに、父の遺体を高円寺の通夜の会場「平安祭典」に運びました。
通夜と告別式の日取りというのは、こちらの希望の前に、火葬場と式場の都合が
優先するものでした。
夜中に実家に帰宅しましたが、この夜は、さすがに父との様々な思い出が脳裏を
駆け巡り、一睡もできませんでした。 翌朝11時から15時までみっちり打ち合わせ
・・・通夜が24日(水)、告別式が25日(木)にきまりました。
母、兄、私、弟、兄嫁、お弟子の村尾さんと淀野さんでいろいろ相談しながら、遅い
昼食をとり、帰宅後は、夜中の2時まで訃報に関する連絡に集中・・・翌日も続きました。
24日の通夜には予想を遥かに超えて大勢の方々(170名ほど)が弔問に駆けつけて
くださいました。
25日も大勢の方(130名ほど)が、父との最後のお別れにきてくださいました。
23日までは雨や曇り続き、26日以降は一週間も雨や曇りが続きましたが、24、25
両日とも4月の素晴らしい晴れ陽気。まるで父のあり方を表しているようなお天気でした。
お葬式というのは、リハーサルができるものではなく、ぶっつけ本番です。
父が予てから希望していた、無宗教の自由葬で行ないました。
会の中には、兄の次女のバイオリンの献奏あり、父の現役時代の法社会学の講義
のテープを流して、父を偲ぶ場面をつくりました。
遺影を飾るたくさんの花は、華やかなのが好きだった父が喜びそうな、春の明るい
白〜ピンクのスウィートピーやチューリップやカスミソウに水色のベラドンナをアクセント
にしてもらいました。
父を慕ってくださる大勢の方たちが、日本中から駆けつけてくださり、皆さんを大好きな
父が、どんなに嬉しかったことかと思います。
本当に皆様、有難うございました。
苦しみの肉体から解放された父は、今は光となり風となって、いつも私たちと
共にあってくれるものと思います。
大きくて豊かで広い心をもって、あらゆる人、物、事に愛を注ぐことを身をもって教えて
くれた父には、本当に感謝が溢れます。
私がこれまでの生涯でもっとも、無条件に、∞信頼できた人が、父・黒木三郎でした。
パパ、本当に有難う!!!
その日のうちに、父の遺体を高円寺の通夜の会場「平安祭典」に運びました。
通夜と告別式の日取りというのは、こちらの希望の前に、火葬場と式場の都合が
優先するものでした。
夜中に実家に帰宅しましたが、この夜は、さすがに父との様々な思い出が脳裏を
駆け巡り、一睡もできませんでした。 翌朝11時から15時までみっちり打ち合わせ
・・・通夜が24日(水)、告別式が25日(木)にきまりました。
母、兄、私、弟、兄嫁、お弟子の村尾さんと淀野さんでいろいろ相談しながら、遅い
昼食をとり、帰宅後は、夜中の2時まで訃報に関する連絡に集中・・・翌日も続きました。
24日の通夜には予想を遥かに超えて大勢の方々(170名ほど)が弔問に駆けつけて
くださいました。
25日も大勢の方(130名ほど)が、父との最後のお別れにきてくださいました。
23日までは雨や曇り続き、26日以降は一週間も雨や曇りが続きましたが、24、25
両日とも4月の素晴らしい晴れ陽気。まるで父のあり方を表しているようなお天気でした。
お葬式というのは、リハーサルができるものではなく、ぶっつけ本番です。
父が予てから希望していた、無宗教の自由葬で行ないました。
会の中には、兄の次女のバイオリンの献奏あり、父の現役時代の法社会学の講義
のテープを流して、父を偲ぶ場面をつくりました。
遺影を飾るたくさんの花は、華やかなのが好きだった父が喜びそうな、春の明るい
白〜ピンクのスウィートピーやチューリップやカスミソウに水色のベラドンナをアクセント
にしてもらいました。
父を慕ってくださる大勢の方たちが、日本中から駆けつけてくださり、皆さんを大好きな
父が、どんなに嬉しかったことかと思います。
本当に皆様、有難うございました。
苦しみの肉体から解放された父は、今は光となり風となって、いつも私たちと
共にあってくれるものと思います。
大きくて豊かで広い心をもって、あらゆる人、物、事に愛を注ぐことを身をもって教えて
くれた父には、本当に感謝が溢れます。
私がこれまでの生涯でもっとも、無条件に、∞信頼できた人が、父・黒木三郎でした。
パパ、本当に有難う!!!
2010/03/02 21:11 父 ・ 黒木三郎 逝く (4)
2月2日に、 医師から既に末期的な癌であることを知らされ・・・(それまでなぜ判らな
かったのか疑問ですが) 処置としては、できるだけ痛みを感じないようにお願いし、
あとは基本的に医師の判断に任せることにしました。
余命は約1〜3ヶ月ということでした。
2月8日の父の誕生日に、スウィートピーとカスミソウの花束と心をこめて書いた
バースデイカードをもっていきました。
父は痛み止めを服用しているせいか、意識が不明瞭な様子・・・でも私が頬に触れ
たりしながら語りかけると、嬉しそうに懐かしそうに、じーっと私を見つめました。
13日ごろ医師から、元気になるために輸血をしようと思うといわれ、母と兄が同意
しました。私は翌朝、母に電話をして、それがよい処置と思えず意見をしたのですが、
結局 輸血をすることに。
輸血後、父は、痛みに加えて、強烈な痒みで苦しみながらの2日半・・・
両腕や胸に酷い傷ができるほど、かきむしった跡がありました。
あんなに人生を愛し、家族を愛し、出会った人達に暖かさと優しさをもって接し、
仕事もよくした父の最期が、あんなに苦しいものだったなんて、本当に可哀相で
残念です。
最期は、いつものように母が面会を終えてうちに帰り、夜の7時半に看護士さんが
気付いたときには、呼吸が停止していたそうです。
私は、父の直接的な死因は、合わない輸血によるショック死だったのではと思っています。
かったのか疑問ですが) 処置としては、できるだけ痛みを感じないようにお願いし、
あとは基本的に医師の判断に任せることにしました。
余命は約1〜3ヶ月ということでした。
2月8日の父の誕生日に、スウィートピーとカスミソウの花束と心をこめて書いた
バースデイカードをもっていきました。
父は痛み止めを服用しているせいか、意識が不明瞭な様子・・・でも私が頬に触れ
たりしながら語りかけると、嬉しそうに懐かしそうに、じーっと私を見つめました。
13日ごろ医師から、元気になるために輸血をしようと思うといわれ、母と兄が同意
しました。私は翌朝、母に電話をして、それがよい処置と思えず意見をしたのですが、
結局 輸血をすることに。
輸血後、父は、痛みに加えて、強烈な痒みで苦しみながらの2日半・・・
両腕や胸に酷い傷ができるほど、かきむしった跡がありました。
あんなに人生を愛し、家族を愛し、出会った人達に暖かさと優しさをもって接し、
仕事もよくした父の最期が、あんなに苦しいものだったなんて、本当に可哀相で
残念です。
最期は、いつものように母が面会を終えてうちに帰り、夜の7時半に看護士さんが
気付いたときには、呼吸が停止していたそうです。
私は、父の直接的な死因は、合わない輸血によるショック死だったのではと思っています。
2010/03/02 19:21 父 ・ 黒木三郎 逝く (3)
喜寿出版記念パーティーの日は、前日までの雨模様とは打って変わっての
晴天で、春のように暖かい日・・・後でより明確になりますが、父は本当に
晴れ男です。
その頃父は、食が大分細くなっていて、毎日母が作るパン粥を好んで食べていました。
このパーティーでは、フランス料理がコースで振舞われたのですが、なんと父は見事に
全て美味しそうにもくもくと平らげたのです。 これには家族も皆さんもびっくりでした。
父はとても楽しみにしていたこの日を、本当に嬉しく有り難く思ったのだと思います。
その後、父の症状は 少しづつ悪化していきました。
今年のお正月は、お節料理を少しづつ楽しみましたが、会話は極端になくなりました。
テレビもつけていませんでした。
正月20日ごろ急変があり再入院。 あれほど食べることを楽しんだ父は、もう二度と
口から食することはできませんでした。
2月2日に医師と相談する中で、初めて癌にかかっていたこと、それも既に末期である
ことを知らされました。
晴天で、春のように暖かい日・・・後でより明確になりますが、父は本当に
晴れ男です。
その頃父は、食が大分細くなっていて、毎日母が作るパン粥を好んで食べていました。
このパーティーでは、フランス料理がコースで振舞われたのですが、なんと父は見事に
全て美味しそうにもくもくと平らげたのです。 これには家族も皆さんもびっくりでした。
父はとても楽しみにしていたこの日を、本当に嬉しく有り難く思ったのだと思います。
その後、父の症状は 少しづつ悪化していきました。
今年のお正月は、お節料理を少しづつ楽しみましたが、会話は極端になくなりました。
テレビもつけていませんでした。
正月20日ごろ急変があり再入院。 あれほど食べることを楽しんだ父は、もう二度と
口から食することはできませんでした。
2月2日に医師と相談する中で、初めて癌にかかっていたこと、それも既に末期である
ことを知らされました。
2010/03/02 18:43 父 ・ 黒木三郎 逝く(2)
父のお弟子さんたちが機転を利かせて、 昨年11月22日に、2ヶ月半前倒し
して、喜寿の出版記念パーティーを開催してくれました。
場所は当初は、以前からよく使っていた、竹橋の学士会館を予定していましたが、
父の体調を考慮して、直前に、自宅近くの国立のフランス料理レストラン・
シャトーシェリゼに変更しました。 父は車椅子で参加でしたし、この時間と場所
の変更は本当に賢明でした。
当日まで間際の連絡でしたし、本当に親しいお弟子さんや友人の方にだけ声を
おかけしたのですが、北海道、九州、四国など、日本中から70名ほどの方が、
駆けつけてくださいました。
父は現役の教授職から退き18年、利害関係は全くありませんから、真に父を
慕ってくださる方たちばかりがお集まりくださいました。
何人かの方がスピーチをしてくださいましたが、皆さん共通してらっしゃるのは、
父はどんな時でも明るく前向きで、小さいことに拘らず、優しく大らかで、
仕事をよくこなした、ということでした。
して、喜寿の出版記念パーティーを開催してくれました。
場所は当初は、以前からよく使っていた、竹橋の学士会館を予定していましたが、
父の体調を考慮して、直前に、自宅近くの国立のフランス料理レストラン・
シャトーシェリゼに変更しました。 父は車椅子で参加でしたし、この時間と場所
の変更は本当に賢明でした。
当日まで間際の連絡でしたし、本当に親しいお弟子さんや友人の方にだけ声を
おかけしたのですが、北海道、九州、四国など、日本中から70名ほどの方が、
駆けつけてくださいました。
父は現役の教授職から退き18年、利害関係は全くありませんから、真に父を
慕ってくださる方たちばかりがお集まりくださいました。
何人かの方がスピーチをしてくださいましたが、皆さん共通してらっしゃるのは、
父はどんな時でも明るく前向きで、小さいことに拘らず、優しく大らかで、
仕事をよくこなした、ということでした。
| 1/2PAGES >> |